RSS

東アジアの歴史から現代を学ぶ

プライベート忘備録

中国大陸の晋時代に編纂された「正史 三国志」を通して東アジアの歴史を紐解く。

そうして、近現代の日本やそれに至る古来からの真の国際関係が見えてくればいい。

今日まで学び経験して得た知識が正確とは限らない。

再検証から見えてくるもの。

自己脳内思考整理のため、まとめます。

他の人が読んでも面白くないでしょう。


「三国志」には、

「正史 三国志」--西晋の陳寿(成立はAD.280年頃)と、

「三国志 演義」--羅貫中(らかんちゅう)或いは施耐庵(したいあん)--がある。


「正史 三国志」//全部65巻からなる本格的歴史書

  魏国志30巻、本紀4巻、蜀国志15巻、呉国志20巻で構成

  蜀、呉を滅ぼして統一の後 司馬炎が魏を内部から乗っ取り,晋を建国 。

  魏の視点に立って物語が展開していくので厳密には公平であるとは言えない。

  「正史」といっても、自己正当性を持たせ都合の悪いところは消してしまえ

  というのが本来の目的であることを忘れてはいけない。


「三国志 演義」//

  面白可笑しく話を盛っており、フィクションが多い。七分実事、三分虚構。

  「正史」の1200年後に小説として完成。


AD.23~184 後漢

AD.57    後漢の明帝が倭の奴の国王に対し金印を与える。(初めて日本が歴史に登場)

AD.220    後漢が滅び三国時代へ 魏、呉、蜀(『三国志』の時代)


魏志倭人伝とは、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。

ここに邪馬台国、卑弥呼の記述があることから、邪馬台国論争が起きている。

----------------------------------------------------------------------------------

■文字の起源//

今日知られている世界の文字体系のほとんどすべては、究極的にシュメールか中国のどちらかで発達した文字の子孫と言われている。


カテゴリ別/ 

表語文字--文字が原則として単独の文字で意味をなす。多くは象形文字に起源を持つ。

表音文字--一つ一つの文字が音素や音節を表し、意味に対応しない文字体系。
     特定の順序につながって語の発音を表すことで意味をなす。アルファベットなど。

表意文字--各々の文字が表す意味は明確だが、言語の発音との結びつきが弱いと考えられる文字体系。


インダス文字/紀元前3千年紀/表語文字

シュメール文字/古代メソポタミアで使用された言語/紀元前2600年の楔形文字

漢字/紀元前2千年紀の甲骨文字/中国の文字の証拠は紀元前1600年のものである。


「白川文字学」白川静
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/sio/eprof.html

甲骨文字や金文といった草創期の漢字の成り立ちにおける宗教的、呪術的背景を字形分析から明らかにした。「サイ」の発見。

説文解字//後漢の許慎(きょしん)の作


「口」を持った漢字の多くは、「くち」と解釈したのでは意味が通らず、神事に関すると考えて始めてその漢字の持つ意味が浮かび上がる。
「口」の原形は「サイ」。白川は神に対して載書(祝詞)をあげるときの供えの器を象徴したものと解く。「サイ」はト辞(亀甲・獣骨を焼いたそのひび割れで占った内容や吉凶を、それに刻んで記した文)では「載(おこなう)」の意味に用いるので、白川はこれを「サイ」と名づけた。
 漢字の起源は民間の暮らしではなく、神事と政治に関わりがあった。漢字の形成を通して古代人の思想が浮き彫りになる。中国最古の文字資料である殷・周の甲骨文や金文に対して体系的な研究を行い、中国および日本の古代文化について独創的な研究を築き上げた。

----------------------------------------------------------------------------------

縄文時代について//

日本の縄文時代   BC.13,500年~BC.300

【疑問】弥生渡来人が来るまでの10,000年の間に、縄文人に文字はなかったのか。

----------------------------------------------------------------------------------

年表

BC.1600  殷(商) 夏の桀(けつ)王を滅ぼし,商王朝の建国。

九尾狐伝説

殷の紂王(ちゅうおう)の妲己(だっき)は、妹喜(ばっき)などと共に悪女の代名詞的存在として扱われる。
元代の歴史講談小説群である『全相平話』の一節「武王伐紂平話」の中で妲己が妖狐伝説と結び付けられ、妲己はキツネのなりかわりとされた。「千字文」の「周が殷の湯を伐った」に対する注で、殷の紂王
(紀元前11世紀頃)を誘惑して国を傾けた妲己(だっき)は九尾狐であると指摘。明代の「封神演義」が妲己を九尾狐の精としているのは、この説をもとにしている。

「商」という漢字の成り立ちも初めて知りました。


BC.1024  インドに釈迦 誕生

BC.604  老子 誕生(タウ--道)

BC.551  魯に孔子 誕生
BC.384  アリストテレス 誕生(古代ギリシアの哲学者 プラトンの弟子)

BC.372  魯に孟子 誕生

BC.221  秦 始皇帝 中国を統一

       項羽と劉邦(楚漢戦争)

BC.97    司馬遷(BC.145~BC.86)の『史記』完成

AD.2    仏教が中国に伝来

AD.23~184 後漢

AD.57   後漢の明帝が倭の奴の国王に対し金印を与える。(初めて日本が歴史に登場)

AD.220   後漢が滅び三国時代へ 魏、呉、蜀(『三国志』の時代)

----------------------------------------------------------------------------------

■邪馬台国論争//

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。狗奴国との戦いがあった時期とされる248年頃から間もなく卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。

 → 北九州説、畿内説、四国説、その他

   はたして何処なんでしょうか?

※魏で使われていた距離の単位は「短里」なんですね。
 一里は何メートルか------短里 75~77m、100里---7.7km、1000里---77km。

 人の足サイズ25~26cmなら、その3倍が一歩の歩幅相当。一里は100歩分。


卑弥呼は原始シャーマン、占いや祈祷をして霊力で統治していたとみるべきでしょう。

いや、周囲がそれを望んだということ。

----------------------------------------------------------------------------------

AD.239  邪馬台国の卑弥呼、魏に使者。対立していたのは狗奴国(くなこく)

AD.226  「魏志倭人伝」には、日本(倭の国)から中国(魏の国)の王へ献上したとある。

 進貢品(進貢時期は248年-266年の間)

「男女30人」、「真珠5,000個」、「珍しい高価な織物40反」、

「孔青大句珠二枚(穴が空いて曲がった青い大きな玉2個--ヒスイ製勾玉であろうと推測される)」


シナ人は倭国の位置をこのように考えていた。

中国の古地図

----------------------------------------------------------------------------------

■古事記と日本書紀//

古事記 712年完成、

稗田阿礼が口述した内容を太安万侶(おおのやすまろ)が執記編纂。

稗田阿礼は実は柿本人麿のことだとか、作者は九州倭国王の命を受けた「編纂者集団で、個人の著作ではない」とする説もあり、どれが正しいのか。

日本書紀 720年完成(奈良時代)、藤原不比等 編纂。

3世紀から6世紀の倭国の様子は不明。

最初の頃は神話チックで、実際の天皇に結び付けるストーリーに権威性を感じる人は多いでしょう。

戦前の軍国教育に利用されました。


日本列島を生んだのはイザナギとイザナミという夫婦の神様。
そのイザナギの左目から生まれたのがアマテラスという女神。
(昼-天照大神/アマテラス、夜-月読命/ツクヨミ、海-須佐之男/スサノオ)

そして、その子孫が初代天皇の神武天皇ってことになっています。

スサノオ須佐之男×クシナダヒメ(八岐大蛇)-----

スサノオ子孫のオオナムチ「オオクニヌシ」(因幡の白ウサギ)-----
天照大神アマテラスの孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が日向(宮崎付近)に天下ります。
これを天孫降臨といいます。

日本を造った神様の左目から生まれたアマテラスが天皇の先祖なのだから、

天皇による支配は当然ってことですね。

もっと天皇による支配に正当性を持たせよう、都合の悪いところは消してしまえっていうのが

本来の目的!?

「天孫降臨」とは、渡来系弥生人がこの列島に到着したという意味でしょう。


■歴代天皇の実在性

・初代神武天皇から九代開化天皇までは、実在した人物として扱う学者は珍しい
・十代崇神天皇から神功皇后まではマチマチ。

 例えば、成務天皇・仲哀天皇・神功皇后は実在しないと考える学者が多い。
・十五代応神天皇以降は、実在したと考える学者が大勢的。

----------------------------------------------------------------------------------

AD.622年 乙巳の変(いっしのへん)

中大兄皇子、中臣鎌足 唐カクムソウ らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。


AD.645年 大化の改新
中大兄皇子(後の天智天皇)は孝徳天皇を即位させ,自らは皇太子として実権を握った。

1,年号の制定
2,公地公民の制(全ての土地は天皇のもの)
3,班田収授の法(その土地を、農民に貸し出した)年貢制
4,租庸調制(「租(米)」とは別に、「庸(労働)」、「調(地方の特産品)」を税として治めなさいというもの
5,国郡里制


AD.663年 白村江の戦いで唐と新羅連合に敗北

AD.672年 壬申の乱
天智天皇の子である大友皇子(おおとものおうじ)と天皇の弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)との間で皇位継承をめぐり勃発した争い。
----------------------------------------------------------------------------------

■朝鮮半島の歴史(一部)

高句麗 (紀元前37年 - 668年) 668年に新羅と唐の連合軍に滅ぼされる
     日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いても「こま」と読む。

新羅  (紀元前57年- 935年)  出雲は新羅さながら   空海

     秦氏が作った京都の「太秦(うずまさ)」の中心地は、広隆寺も含め新羅様式。

百済  (346年 - 660年)。白村江の戦いで援軍送る。

半島南部の伽耶国

朝鮮には馬韓(ばかん)という朝鮮半島南部に存在した部族集団の国があった。

※「馬韓(ばかん)」の他にも隣接する「弁韓(べんかん)」と「辰韓(しんかん)//秦韓(辰韓)」があり、この三つの国のことを総称して「三韓(さんかん)」とも呼ぶ。

日本民族と朝鮮民族は同じ民族ではなく、全く関係のない民族です。


■渡来系弥生人

722年に書かれた「続日本紀(しょくにほんぎ)」の前書きによると、飛鳥地方の住民のうち、8~9割は百済からきた渡来人の一族で、その他の人は1~2割であるということです。

都に住む人の8~9割が百済人というのが、当時の倭国の姿だったというのであれば、

渡来系のボートピープルが列島の西側に逃れてきて作った地域の豪族集団が多数存在し、

その中のひとつが「邪馬台国」だったのか。

渡来人-弥生時代

彼らは武器を持っているので、先住民殺しは得意だしどんどん東に勢力を伸ばしていく。

記紀を見ても分かるように、人間の存在する限り権力争いは果てしないのだろう。

邪馬台国が何処であろうと、もう、どうでもいい気分になってくる。


邪馬台国(ヤマタイ)→大和(ヤマト)

「大和・倭」の「やまと」とはヘブライ語です。

これはヘブライ語(イスラエル語)で「ヤハウェの民」という意味です。

ヤハウェは、絶対神または唯一神とも呼ばれる「神」のことです。

マトゥーは、「民」を指します。

ヤハウェの「ヤ」と「マトゥー」で「ヤマトゥー」。

これが転じて「ヤマト」になったと言われている。

その他にも多々ある。

ヘブライ語で『ワッショイ』とは『神が来た』という意味!!

アスカ(飛鳥)=ハスカ(ご住所)

ミカド(帝)= ミガドル(高貴なお方)

サムライ(サムライ)=シャムライ(守る者)

スワル(座る)=スワル(座る)

カク(書く)=カク(書く)

ワラベ(子供)=ワラッベン(子供)

http://xanadu.xyz/post-623/

「かごめかごめ」「君が代」「さくらさくら」

https://matome.naver.jp/odai/2137432265235492101

ヘブライ語と日本語の共通点より

http://xanadu.xyz/post-623/

日ユ同祖論!


『日本書紀』
 天孫降臨と東遷という神話を持つ氏族が二つ、天皇家ニニギの孫と物部氏ニギハヤヒの子孫。

天皇家の神話では、天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降臨し、それから四代後に、磐余彦(イワレビコ)/神武天皇が大和へ東遷したとされています。

神武天皇-----『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめらみこと)」、

『古事記』では「神倭伊波礼毘古命」。


大伴氏→ 後の伴氏 //瓊瓊杵尊ににぎのみことの天孫降臨の時の随伴神。

     天孫降臨の時に先導を行った天忍日命アメノオシヒの子孫とされる天神系氏族で、

     佐伯氏とは同族関係とされる。
     (一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)

     大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていた。
  

物部氏 //「ニギハヤヒ」を祖先とする氏族  蘇我氏と対立 → 石上朝臣

物部氏の祖先伝承では、祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が河内の河上の哮峯(いかるがのたけ)に降臨し、その後まもなく大和の鳥見の白庭山へ移ったという。神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されている。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していった。

天 羽 羽(あめのはばや)と歩靫(かちゆき)/背中に背負う矢立 を見せ合う。
神武天皇と物部氏ニギハヤヒは同じ天孫族の一員だというわけです。


※大伴氏と物部氏の相違//親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがある。


蘇我氏 //『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰たけのうちのすくねを祖としている。渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。
  

秦氏 // 秦の始皇帝の末裔、新羅系の渡来人。秦人が朝鮮半島に逃れて建てた秦韓(辰韓)を構成した国の王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に王であった弓月君が日本に帰化した景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする説(日ユ同祖論)。
豊前国(ぶぜんのくに)福岡県東部、大分県北部に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。宗家は朝廷の財務官僚として活動したとされる。
関東にも渡来人がかなり入ってきたようであり、秦氏は相模原にも上陸し、現在の秦野市の地域に入植してその名を現在に留めている。


忌部氏(いんべうじ)// 始祖--天太玉命あめのふとだまのみこと は、日本神話に登場する神。

古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族。


漢氏 // 


卑弥呼とその弟、天照大神アマテラスとその弟/須佐之男スサノオ。

国譲り神話では、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先だち、高天原(たかまがはら)から国土の支配権委譲を求める使者が派遣され、大国主命(おおくにぬしのみこと)がこれを承認し、出雲(いずも)の多芸志(たぎし)の小浜に祀(まつ)られる(出雲大社)話。


神武天皇イワレビコとナガスネビコとの決戦で、

天 羽 羽(あめのはばや)と歩靫(かちゆき)/背中に背負う矢立 を見せ合う。

道具を見せ合ったら、何だ同族じゃん!で、国を譲る。

似てる部分が結構ある。


まぁ、こんな訳で、西日本の先住民達(縄文人?)は渡来人にのけ者にされて、逃げるしかなかった。

シナ系、朝鮮系、モンゴル系、南アシア系、中東系、みんなで天孫降臨して、大ラッシュ状態。

シルクロードを通じたりして、ボートピープルが一族引き連れて大勢で海を渡って押し寄せた。

それで混浴、失礼、ごっちゃ混ぜ。だからユダヤ系も当然来てるでしょう。

このどこが、大和民族なんだか。純潔大和民族が、笑ってしまう。

充分乱交なわけで。

----------------------------------------------------------------------------------

1336年 ~ 1392年 日本の南北朝時代

京都の北朝と吉野の南朝(後醍醐天皇)

1336年、足利尊氏が光明天皇を擁立したため、後醍醐天皇は南の吉野に逃れ、日本は二人の天皇が並び立つ南北朝時代に突入した。
持明院統の光厳(こうごん)上皇の弟宮を立てて光明天皇とした。後醍醐天皇が在位されているのに、別の天皇を立てたのが二朝並立の始まりである。
しかし、三種の神器は後醍醐天皇の許にあり、神器なくして擁立された光明天皇には正統性はない。そこで尊氏はなんとか神器を得ようと、一計を図って後醍醐天皇に京都へのお帰りを請うた。そして京都に戻られた後醍醐天皇を幽閉して、神器を光明天皇に渡すように強要した。

後醍醐天皇は京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して吉野に南朝(吉野朝廷)を開き、北陸や九州など各地へ自らの皇子を奉じさせて派遣する。

足利一族って、かなりの嘘つき、詐欺師。


1339年   後醍醐天皇が崩御

1358年   足利尊氏が死去

1467年   応仁の乱(室町時代)

日野富子をはさんでの義尚(子)と弟義視(よしみ)との跡継ぎ争い。

プラス、畠山政長と畠山義就(よしなり)の跡継ぎ争いで、大混乱。

1573年   15代将軍・足利義昭が織田信長によって京都から追放された


南北朝続きでは、

「明治天皇すり替え説」

昭和4年にはすでにあったようで、土佐藩出身で宮内大臣も勤めた

土佐藩出身の田中光顕の衝撃の告白が、その始まり。


幕末日本の秘密
鬼塚 英昭(おにづか ひであき、1933年 - )は日本のノンフィクション作家。
https://www.youtube.com/watch?v=hBbicdBsIxU

似てるでしょう。

何か似てる

これではなく、、、、


1866年、長州の謀略で、孝明天皇が暗殺されます。


1877年(明治10)9月2日/

すり替えを知っていた皇女和宮は脚気衝心のため療養先の箱根で塔ノ沢で薨去(こうきょ)した。32歳という若さであった。口封じのための暗殺とされる。昭憲皇太后は無論知っていたが、献身的に皇后を演じ続けた。


1867年、孝明天皇の第二皇子(睦仁親王)の名をかたり長州の田布施村の藩士 大室寅之祐が明治天皇として即位します。


最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」及び「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した禰津正志(ねずまさし)でした。


明治天皇の皇后//昭憲皇太后(旧名・一条美子はるこ)
病弱で実子はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室(柳原愛子やなぎわら なるこ)が生んだ嘉仁よしひと親王を養子とした


明治天皇秘密顔

岩倉具視の妹が孝明天皇の看護人の中にいました。動機もあり、強く疑われる立場。

首謀者は伊藤博文。


1910年(明治43年)8月29日  日韓併合

伊藤博文は田布施町の出自で、本当は併合に消極的だったといわれる。

西郷隆盛は逆に積極推進派。

 併合といっても植民地化ではなく、資本を投下してやる温情的な扱いであった。

 まるで祖国の同胞を憐れむような風に。

 なるほど、そうなのか。

1909年10月26日、伊藤博文はハルビンにて安重根(アン・ジュンコン)に暗殺される。

犯人は朝鮮族の安重根、伊藤の罪として孝明天皇の毒殺を挙げていました。

調べていくと、随分と信憑性があります。

朝鮮人部落 山口県熊毛郡田布施町

田布施一味の陰謀


1912年 大正天皇即位(1926年 崩御47才)

大正天皇はどうやら大室寅之祐の子らしいが、昭和天皇は大正天皇の子ではないからである。
西園寺八郎と貞明皇后のあいだの子とされる。その事情を『日本のいちばん醜い日』で詳述している。
西園寺八郎は毛利家から公家の西園寺公望(元老でありフリーメースン)の養子になった人物で、宮中深く浸透した。
大正天皇とは学習院で同級生だった。その息子公一(きんかず)は、コミュニストでゾルゲ事件に連座したが、親(八郎)のよしみで釈放されている。
明治天皇も伊藤博文も、大正天皇に子どもができないことを知っていたので、西園寺八郎を貞明皇后に近づけたとされる。
大正天皇の子4人(昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)はいずれも父親は別とされる。みんな顔が似ていない。


大正天皇の后 貞明皇后(旧名は:九条 節子くじょうさだこ)

貞明皇后は五摂家のひとつ九条家から嫁したとされるがウソで、武蔵野のある大農家の娘だったという説と、彼女の本名は朱貞明だという説がある。中国か朝鮮であろう。朱貞明は、明治政府が徳川幕府から接収した皇居(千代田城)を、高級遊郭にしたのだが、そこに召し出された女性だという。

千代田城は「千代田遊郭」と呼ばれ、伊藤博文や大室寅之祐らが、維新で職を失った旗本の娘から美女を選んで囲ったもので、天皇と重臣の遊び場だった。朱貞明が長州の侍に騙されたかして千代田遊郭に入れられ、後に大正天皇の嫁にさせられたとするなら、長州嫌いになったわけもわかる。
 貞明皇后は秩父宮の妃を迎えるにあたっては、わざわざ朝敵とされた会津藩松平家から勢津子を選んで、長州への面当てをやった。


靖国神社

靖国神社(長州神社)は、1879年6月29日、田布施の出身者によって建てられた東京招魂社が始まり。
鳥羽・伏見より箱館戦争にいたるまでの戊辰戦争戦没者を合祀した。79年東京招魂社は別格官幣社靖国神社となる。


靖国神社が西郷隆盛を祀らない訳

薩摩・長州の確執
長州を恨んで死んでいったであろうかつての賊軍の魂は招きたくないのかもしれない。
靖国は西郷隆盛を「祀らない」のではなく「祀れない」施設なのではないだろうか。


ポール・マニングの『米従軍記者が見た昭和天皇』

天皇の海外資産
赤十字は私たちが考えるようなナイチンゲールの世界ではない。国際金融資本、特にユダヤ資本と深く結びついている。彼らは朝鮮戦争を仕掛けるために、天皇が必要だったのではないのか。天皇は彼らの要望に応えると約束したために、秘密資金の凍結を解除されたと推定しても、そう間違った推測とはな

らないであろう。

「1944年1月、昭和天皇は参謀総長と軍令部総長から結論として太平洋戦争に勝機はないと報告され、木戸内大臣に和平計画を立てるよう指示した。木戸は当然のことながら、この指示の意味は皇室財産を守ることが第一であり、日本を平時の状態にする準備は二番目であると理解したのである。二番目の状

況を達成するには時期尚早だったができた。木戸は皇室の財政顧問でもある主要銀行の経営者たちを招集し、会議を開いた。彼らの提案で、天皇の現金が東京から銀行間無線でスイスに送金されたのである。東京にある天皇の銀行口座の残高が事実上ゼロになったが、スイスの銀行の番号口座残高が急激に増加したのだった。横浜正金銀行のスイスの支店は次に、天皇の仮名による銀行投資にドイツの信用を付け、天皇の流動資産の換金能力をさらに高めた。他の財閥の大企業経営者たちも天皇の現金の流出に気づき、アフガニスタン、トルコ、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、朝鮮、香港、満州、フランス、ドイツなどに預金していた現金を引き出し、スイスの銀行へ送金した。彼らはまた、ブエノスアイレスにある銀行の法人や個人口座の数も増やしたのである。

占領期間中、日本銀行が横浜正金銀行の業務を引き受けることになり、この結果、皇室財産の財務上の秘密が継続して保証されたのである。」


天皇のロザリオからの要約です。 二 天皇の財産はどこへ消えたのか。謎は残る
https://ameblo.jp/anne1950/entry-11023906371.html


天皇がいかに金塊をアルゼンチンに運んだか「スイスに預けられた天皇の秘密資金」
天皇はスイス国立銀行に「皇后名」で、スイスの国際決済銀行(BIS)BISに「天皇名または仮名」で、最低2口の秘密口座を持っていたと思われる。


2000年に濱田政彦の『神々の軍隊』がでた。
この本の中で濱田は天皇の秘密資金に触れている。

「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などスイス、バチカン、スウェーデンの銀行などに預けられていた。(略)中でも国際決済銀行、通称“バーゼルクラブ”は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。(略)

内大臣木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和十九年一月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃がすよう指示した。そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに戦争協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。(略)皇室とバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界の闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏にみえるのは、その資産を戦後の日本復興に使ったからなのかも知れない。M資金の闇は深い。」

天皇家は当時の多くの大財閥、銀行などの大株主で、戦争が長引けば長引くほど植民地における大財閥の事業拡大、生産増産、戦争資金の需要増大による銀行、大企業の株価高騰で大儲けしていた。戦争そのものが天皇家を儲けさせていた。

近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ彼ら国際金融資本家たちを‘ご主人様’と呼んでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回想録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。

ロスチャイルドから依頼を受けた金融業者サーケインズ5・ヘンリー・ストラコッシュユダヤ王ロスチャイルド一族のバーナード・バルーク「戦争とは何か」を如実に示している。戦争は国家間の利害、憎悪の衝突から起こるものだけではなく、巨大なマネー・ゲームでもある。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。

この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。天皇とその一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。この銀行に加入していなければ、中国本土に攻め込む力さえなかったのである。ひと度、この銀行に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちばん金の儲かるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知りつくした人物は日本にいなかったし、これからも登場しないだろう。(後略)

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。

「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は三十七億二千万円」。木下道雄の(元侍従長の)「側近日記」が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで戦争直後の天皇家の財産は37億5千万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7,912億円である。」

この数字の10倍近くをスイスの銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。

敗戦前の国家予算は100天皇家の蓄財8億円を切っていた。
天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。

天皇の「キリスト教入信」対策は、この2つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。
それとも広田弘毅(私の注:終戦前の首相経験者の1人)のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。

昭和天皇ヒロヒトは、近衛文麿首相の幾度もの戦争中止の申し出を退け、自分の身の安全確保と、7兆円以上もの皇室資産をスイスの銀行に逃がしてから終戦工作に入った!


戦後は、天皇を騙して開戦した東条英機ら陸軍軍人に戦争責任があるという嘘の歴史を流布した。

戦争をすれば皇室名義の蓄えが増大し、世界中が儲かるシステムが存在する。


この当時、読売新聞グループ社主であった正力松太郎はCIA要員として天皇擁護とその後の原発推進活動を展開する。マッカーサーの手先になったのだ。国民が天皇を許す理由付けを提供し、その反面東条英機を悪の権化と為しえた。GHQと天皇家の利害が一致したと言える。

GHQは国体護持天皇制を存続させることで無用な混乱を避け、スムーズに敵国日本を占領下に置き支配する方法を選んだ。戦後70年、まだ沖縄は占領されたままだ。


ナチスヒットラーは敗戦を受け止め短銃を自らのこめかみに当て、帰らぬ人となった。

天皇ヒロヒトはどうか。象徴天皇として永らえた。

自国民が原爆を2発も落とされ無残な大量殺戮を受けてもなお、ギブアップサインを出さなかった訳がこれか。ずっと疑問だったが、早期の幕引きが出来なかった理由が分かった。

戦争行為の重さや最高権力者としての自覚を持っていたら、開戦しただろうか。

自覚がないからヒットラーのような最期を選ばず、命乞いをしたのではないか。

個人的には、日本人のサムライ魂を、生き様を見せてほしかった。

世界近隣諸国自国民の多大な犠牲に対する負の遺産を後世に押し付けたままで。

今上天皇はこの経過と事実を知っているので、巡礼の旅をしておられるのだろう。


岸信介、佐藤栄作、その他大勢の田布施グループ。

現在に続く、安倍晋三が天皇を見下している理由が分かった。

「勝てば官軍」。

まだまだ長州天国は終わらない。


ひとつひとつを丹念に調べていくといくらでも時間がかかってしまう。

国境が定かでない古時代、貿易交流があれば当然人的な往来もできる。

倭国は各豪族が舟を使い広範囲に交易を行っていたとみていいだろう。

その範囲は、現代人が想像する以上に広かったように思える。

純粋な大和民族など存在しない。あるのは縄文人のDNA.

日本列島は極東の行き止まりスポットとして機能したのかしれない。


それに調べて書きたいことは沢山ある。

隠された歴史もまだあるのでしょう。


■元寇

1274年、1281年の再度、チンギス・ハンの孫のフビライ---元寇

朝鮮の高麗(こうらい)を従え日本を襲ったが失敗。


■アイヌ民族のDNA


■ノアの方舟伝説

アララト山 標高1870メートル

緯度 39°38'57.13"N,

経度 44°25'8.58"E


■太平洋戦争

『真珠湾作戦の真相 私は真珠湾上空にいた』

淵田 美津雄(ふちだ みつお、1902年(明治35年)12月3日 - 1976年(昭和51年)5月30日)は、日本の海軍軍人、キリスト教伝道者。海軍兵学校52期。最終階級は海軍大佐。
https://www.youtube.com/watch?v=uLCmqeCWww0


書き残された文献は、後の権力者が自己の都合いいようにストーリーを捻じ曲げるので、割り引いて受け止めなければならない。





スポンサーサイト




デイトレードランキング
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント
▼このエントリーにコメントを残す